死去ネット

太田八重子

おおた やえこ
1944 - 1969
ヌードモデル
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2017.08.11 ID:194258
(続き)しかしKKから連絡がないため貴女はKKは心中するつもりがないことを確信し、一人で死ぬことを決意、睡眠薬を飲んだ。M氏がKKに電話連絡、KKが駆け付けてから善後策を相談、入水自殺にみせかけようと二人で車に貴女を乗せて近くの三保海岸へ。12月の夜の海岸には人気はない。二人で貴女を渚まで運び海へ放り込んだ。貴女の遺体が発見されやすくするため、二人は貴女が潮流に流されないよう、潮が満ちるまで貴女を波打ち際近く繋ぎ留めていた・・・。こう考えると検死結果の死亡推定時刻(9日午後10時)と遺体が久能山方面に流されなかったことが説明できる。しかし、貴女は死ぬ覚悟をし覚悟どおり死んだのですから、死への経過がどうであれ、貴女には興味がないことでしょう。「生きている人のようだった」貴女の遺体が傷つくことなく腐敗することなく、早く発見されたことは、貴女の死を惜しむ者にとってはせめてもの慰めでしょう。
ハネムーン 君が夢みし 徳之島 その夢断ちて 早や四十年
南海の 清き渚に 戯れし 乙女の姿 想えば悲しも
 『讃歌』の撮影場所の徳之島を8年前に訪れた時に読んだ短歌です。 
2017.08.11 ID:194253
警察では貴女の死は入水による心臓麻痺と認定しています。しかし、バッグや靴が残されていた場所から真っすぐに海に入ったとすると、貴女の遺体は潮流の関係で久能山方面へ流されて三保海岸で発見されることはなかった。これは次兄の方が貴女の死後一カ月後の昭和45年1月の潮の干満がほぼ同じ日の同時刻に丸太を入水推定場所から海に入れたところ、丸太は三保海岸に戻ってこなかったことで裏付けられます。ほとんど水を飲んでいなかった、コートが遺体の近くに浮いていた、足裏に傷がなかった、発見者が生きているようだったと証言する遺体の状況など単なる入水自自殺するには疑問が多い。『遠すぎる渚』で著者の太佐順氏は睡眠薬を飲んで深い眠りに陥っている貴女を誰かが海に放り込んだのではないか、と仮説を立てています。睡眠薬を飲み体温が上がった状態で冷たい海に投げ込まれると急激な体温低下で心臓麻痺を起こす、と。私はこの仮説は現実味があると思います。12月9日の4時頃貴女が酒屋でウィスキーを買ったのが最後の目撃情報です。ここから私の推測ですが、この後貴女はKK氏の猟友会仲間のM氏宅へ行き、KK氏の連絡をそこで待たせてもらった(以下続く)
2017.07.22 ID:190793
三か月のご無沙汰です。昨日、京急川崎駅近くの東海道かわさき宿交流館の展示「50年前の川崎駅前~大型模型と資料写真~」を見ました。昭和29年(貴女は小学4年)の写真では駅前広場に丸い池がありました。記憶ありますか。昭和38年当時の国鉄川崎駅前のジオラマでは、県下初めての駅ビル(初代。今は新しくなっています)、小美屋・岡田屋・さいか屋の3デパート、市電・トロリーバスも走っている、京浜急行が高架でなく平面を走っている(昭和41年に高架化)、川崎日航ホテルが完成間近(翌年営業開始)。昭和38年は貴女が高校を卒業し就職した年です。通学・通勤のたびに駅前の様子が目に入ったはず。京町循環のバスで一の辻から駅まで行き帰りしていたのですね。市電やトロリーバスには乗ったことがあるのですか。当時の大卒初任給は1万3千円。貴女の初任給はいくらだったのですか。バス代10円、タクシー初乗り80円、白黒テレビ57,500円。初任給では買えなかった。川崎の家にはいつテレビが入ったのですか。普通葉書5円、ラーメン約50円、コーヒー約65円。杉山氏にコーヒーを飲むなと言われる前に、無駄遣いしない貴女は飲みませんよね。
2017.05.19 ID:184143
巽孝一郎
太田八重子さんの50回忌法要は平成30(2018)年12月10日(月曜日)です、
2017.05.19 ID:184100
ぷーーん。。。。遺体、、
2017.05.17 ID:183858
八重子さん♡
2017.05.15 ID:183697
プール・ヴーの話に戻ります。一昨日プール・ヴーに行ってきました。台東区上野桜木1丁目8ー6ー201。鶯谷駅北口から線路をまたぐ陸橋を渡り、言問通り沿いに歩くこと10分。谷中6丁目の信号を左折した白い2階建て建物の2階に「POUR VOUS」と表示がありました。近くに東京芸大があるのでそこへのモデル紹介に都合がよい立地と思われます。53年前の昭和39年、貴女はここに来てモデル登録をしたのですよね。新聞の広告で知ったのですか。川崎から東海道線か横須賀線に乗り東京駅で山手線か京浜東北線に乗り換えたか、京浜東北線一本で鶯谷駅まで来たのでしょう。貴女が歩いたはずの言問通りの歩道を歩きながら、貴女がどのような気持でプール・ヴーに向かったか想像しました。モデルになると決心した以上、迷いはなかったのでしょう。道路沿いに古い建物が残っていました。すぐ行かされたのが朝倉彫塑会。そこは谷中の朝倉文夫のアトリエ兼自宅があった建物(現在、朝倉彫塑館)。プール・ヴーから歩いて行ける距離。貴女を初めてモデルとして起用したのが久保浩。次に溝口寛。次いで絵画教室のモデルとなったことが運命を大き変えることになるとは。
2017.05.09 ID:182966
「プール・ヴー」は勘違いで、ネットで見つけました。機会があったら行ってみます。貴女の遺体が発見された三保海岸の真崎灯台付近には何度も行きました。浜に出る手前に東海大学の海洋科学研究所?と水族館、それと道路を隔てて土産物屋兼食堂と休憩所がありました。それ以外には建物はありません。推定死亡時刻は午後十時。十二月九日の夜、辺りは真っ暗だったはず。清水港の船の灯り、湾の向こうの興津の家々の灯りはあったでしようが。初冬の夜、真っ暗な浜に貴女はどの位の時間いたのですか。
2017.04.11 ID:180179
久し振りに私以外の方から投稿がありました。電車の中で明治大学の学生から詩集を借り、大学に返しに行ってその学生と話をしたのですね。貴女にとっていい思い出でしょう。『讃歌』のモデルをやっている時のことですか。その学生は恐らく『讃歌』展を観て驚き、かつ感動したことでしょう。生前の貴女に会っている人を羨ましく思います。さて貴女に所縁のある場所の話を続けます。貴女がモデル登録をしたモデル紹介所「プール・ヴー」。上野公園の東京芸大の先にあったようですが、インターネットに載っていないので無いのかなあ。貴女が一人住まいを始めた横浜市港北区(現・緑区)荏田町の一戸建て。番地が分からないので探しようがありません。次の東京都目黒区緑が丘のアパートも同じ。貴女が事務員のアルバイトをした溝の口の不動産屋も場所が分かりません。貴女がK・K氏のクー射撃を見た所沢の射撃場は既に無いのですよね。女性週刊誌がK・K氏の妻との対談を設営した横浜シルクホテル(シルクセンタービル内)801号室は、ホテルが廃業してしまい、行けませんでした。対談の後週刊誌の記者達と天ぷらを食べた関内の「天七」は建て替えられたビルにありました。
2017.04.03 ID:179464
ボブアン
貴女は覚えていますか?杉山吉良の写真展「讃歌」で貴女が有名になる前のことです。電車の中で、左翼学生風の男の隣に座り、その学生の読む詩集を覗き見しながら「いい詩ですね。」と言ったことを。そこで学生は「貸してあげようか?」といったら、何処に返せばいいのかと聞いてきたそうです。「明治大学に来て、坂と言えばみんな知っているし、守衛さんに言えば、居れば、呼び出してくれる」とその学生が言った。その後、貴女は詩集を返しに来て彼と生協でコーヒーを飲みながら話したことを覚えていますか。その学生が札幌に在る、有名な「レトロスペース・坂会館」の館長その人です。彼はあらゆる物を蒐集しています。勿論貴女の写真集は当然のことながら、長い間入手できなかった『X線撮影法体系』と言う本を偶然医師と結婚した妹さんの家で偶然見つけたそうです。貴女の体をモデルにしたこの本の中には23歳か24歳の貴女が永遠に生きているそうです。坂館長にとって、貴女の存在は複雑な思いを伴う、半ば人生の伴侶のような存在に私には思えました。彼は1943年生まれ。あなたは1944年生まれ。似た時代を生きてきた彼は独身を貫いています。
2017.03.10 ID:177097
昨日は月命日でした。貴女が桜木四郎と会って『X線撮影法大系』のモデルを引き受けた後、二人でコーヒーを飲んだ有楽町の交通会館の喫茶店その喫茶店かどうか分りませんが交通会館の喫茶店に入りました。そして桜木氏に天ぷらを御馳走になったみゆき通りの天一。店の前まで行きました。建物は建て替えられたようで新しかった。価格表を見て高いので入店するのはやめました。数寄屋橋交差点近くのショッピングセンター2階にあった富士フォットサロンは3、4年前に六本木に移転していました。貴女がアルバイトのホステスをしたスバル(西銀座八丁目、土橋のたもと。新橋駅の近く)に行きましたが、目印の拓殖銀行は既に無く、どのビルか特定できませんでした。。美術家会館を含め平成22年1月のことです。貴女が卒業した小野学園に行ったのは平成8年12月です。太佐順『遠すぎる渚』を読んですぐのことでした。校舎は建て替えられていて貴女が在校していた頃の面影はありませんでしたが、大井町駅から学校までの通学路だったろう道を歩きながら、貴女が制服姿で登下校する様子を想像しました。私立の高校にいっていたのは予想外でした。お父様のご配慮だったのですか?
2017.02.18 ID:174848
三か月ご無沙汰しました。外車を乗り回しクレー射撃をするK・K氏に貴女は関心を持つ。同年7月大雨の日、K・K氏の外車で自宅まで送ってもらう・・・その日かはわからないがK・K氏と貴女は男女の関係になる・・・。朝倉彫塑会のあった朝倉文夫の自宅兼アトリエは今は朝倉彫塑として開放されています。一昨年行きました。アトリエには朝倉文夫の彫像がいくつか置かれていて、女性の裸像を背後から見ると貴女のように背中そして腰から下がしっかりした体形で、彫刻のモデルはこういうプロポーションの女性があっているのかなと思いました。貴女は彫刻のモデルにぴったりだったようですね。溝口寛が貴女をモデルに彫像を作っているはずですが、是非見たいものです。絵画教室のモデルをしていた美術家会館のビルには6年前に行きました。ビルは昔のまままでした。貴女は日産の勤務が終わると京浜東北線の乗って有楽町駅で下車、交通会館の横、松屋デパートの横を小走りに通ってこのビルに向かったはずです。夕食は絵画教室のモデルが終わってからどの店で何をたべたのでしょうか。コンビニもファミリーレストランも無かった時代、ラーメンでもたべたのかなあ。
2016.11.11 ID:167838
3か月の御無沙汰です。貴女の所縁の地は前述の他は太佐順『遠すぎる渚』で初めて知りました。貴女は昭和38年大井町の小野学園高校を卒業、日産自動車に就職(同校で初めて)し役員秘書となる。翌年自らの意志でモデル登録し最初に紹介されたのが朝倉彫塑会の彫刻のモデル。朝倉文夫の甥の溝口寛のモデルをし、同氏に淡い恋心を抱くが同氏は別の女性と結婚。銀座の美術家会館の絵画教室のモデルをする。『讃歌』のモデル探しをしていた杉山吉良氏のスタッフが絵画教室で貴女を見て杉山氏の専属モデルになることを説得し貴女は応じて日産を辞めた。昭和41年6月東京第一病院放射線科医長桜木四郎と有楽町の交通会館の喫茶店で会い『X線撮影法大系』のモデルを引き受け、料亭天一で天ぷらを御馳走になる。桜木を本当の伯父のように慕う。昭和42年に新橋駅に近いバーにアルバイト・ホステスとして勤務。そこで知り合った日産勤務の男性に恋をし、交際を続ける。昭和43年5月川崎の実家を出て横浜市港北区荏田に一人住まいを始め、家を斡旋した田園都市線M駅(溝の口駅)南口の不動産業(久保田辰蔵)で事務アルバイトをする。そこでK・K氏が貴女に目をつける。
2016.08.11 ID:162634
八王子の寺には貴女の遺骨がないと知って貴女との縁が切れたと思い、遺骨の移転先も聞かずに帰りましたが、後になってなぜあの時、寺に確認しなかったのか後悔することになります。次の場所は川崎の貴女の実家です。昭和45年の暮れだったと思います。川崎駅からは南武線で川崎新町で、又は京急で八丁畷で下車したのか。第一京浜に近い小さな中華そば屋の町内地図で貴女の実家を探しました。露地を入った左側に実家がありました。恐らく長兄の方が居られたと思いますが、声をかける勇気はありませんでした。当時、貴女の位牌と遺影は実家にあったはずですので、思い切ってお参りさせてもらい、貴女の事をいろいろ訊けばよかったと後悔しています。翌昭和46年4月就職して配属された職場が何と川崎。八丁畷まで時々出張しましたが、そこから貴女の実家まで徒歩で10分とかからない。また、先輩に連れていかれたスナックが貴女の実家の近くで不思議な縁を感じました。マスターに貴女のことを訊いたら知っていて、このスナックにも来たことがあるとか。無駄遣いしない貴女ですから1人でなくK・K氏と寄ったのでしょうね。店の名は「パープル」です。いつ寄ったのかなあ。
2016.07.29 ID:161974
月命日から大分経ちました。撮影場所の話が一段落したので、次にそれ以外の貴女にゆかりの場所を書くか書くまいか、貴女の気持ちを考え迷いました。やはり書いた方が良いと結論しました。気に障りましたらご勘弁を。最初に行った場所は貴女が逝去当時住んでいた世田谷区上馬のアパート。昭和45年1月だったか。家主の奥さんが応対してくれましたが、何を聞いたらよいか分かりませんでした。貴女が旅行の都度お土産を買ってきてくれたこと、荷物はお兄さんがトラックで持って行ったと話しくれました。次に行ったのは先にも話しましたが、八王子の寺。昭和45年3月か。寺が都心から移転したばかりで、貴女の遺骨は埋葬されておらず、他の人々の遺骨とともに本堂に安置されていました。遺影の笑顔が素敵でした。その寺へはその後3回墓参しました。2回目は昭和46年3月、徳之島から持ち帰った海水を墓石にかけ、砂とパイプウニのパイプ(とげ)を土中に埋めました。貴女の一周忌法要の卒塔婆が立っていました。3回目4回目はいつだったか忘れましたが、3回目は自殺した長兄の方の卒塔婆が立っていました。4回目は貴女の遺骨はもうここに無いと寺の人に言われました。
2016.06.10 ID:159666
昨9日は貴女の月命日でした。前回の新島は神津島の間違いでした。撮影場所は『讃歌』では奥日光(うち西ノ湖3)が7、浜松海岸3、徳之島3、浜岡砂丘2、伊豆2、蓼科1。『風景の中のヌード』では徳之島4、奥日光3、伊豆1、伊豆大島1。『讃歌 早春の賦』では徳之島8、奥日光6、天城高原2、東京サマーランド2、浜松海岸2、日光キスゲ平1、奥石廊崎1、伊東海岸?1、蓼科1、不明1。『杉山吉良写真集NUDE』では徳之島少なくとも35、奥日光44(うち西ノ湖13)、日光キスゲ平2、浜松海岸8、浜岡砂丘1、東京サマーランド6、伊東海岸?4、菅沼4、天城高原2、 奥石廊崎4、下田海岸2 向ヶ丘遊園バラ園?1、その他不明。徳之島と奥日光が多いですね。ネガはもっともっとあるのでしょう。未公表の写真を見ることができれば嬉しいのですが。杉山吉良氏のご遺族が刊行してくれないものでしようか。  
2016.05.09 ID:158339
今日は貴女の月命日。伊豆大島、新島でも撮影しましたね。伊豆大島は「風景の中のヌード」の「火山灰の山頂」と題した写真。杉山吉良氏は「ツバキの花咲く早春の大島は、西風が強い。山頂から見おろす黒い砂漠に、風に向かって走る美女。不思議に美しかった。」と書いています。その後三原山は爆発しました。当時の「砂漠」は変わってしまったかも。新島での貴女の写真は掲載されていませんが、『讃歌Ⅱ』で他のモデルの写真が2枚掲載されています。伊豆大島も新島もいつか行ってみたい。そのほか東京サマーランドのプール(「早春の賦」「風の中のわたし」)、向ヶ丘遊園のバラ園(「杉山吉良写真集NUDE」)がありますが、やはり大自然の中での写真が美しく素晴らしい。特に海と湖。杉山氏の『裸婦の寫し方選集』(昭和28年刊)という素人写真家向けの写真集がありますが、撮影場所はほとんどが海辺(砂浜、波打ち際、岸壁など)で、『讃歌』の写真を彷彿させるポーズもあります。このような自然の中のヌード撮影の蓄積の上に杉山氏は「日本の四季折々の自然の中に清純な乙女を配した写真」という夢のモデルにぴったりの貴女を得て『讃歌』という傑作を作ったのです。
2016.04.16 ID:157462
篠山紀信氏「太陽の島」の撮影は初めての写真のモデルだったのでしょう。溝口寛氏の彫刻のモデルや絵画教室のモデルをやっている時ですよね。杉山吉良氏との専属契約の前でしようから、会社勤めをしながらですね。きっと夏休みを取って奄美大島に行ったのでしょう。昭和42年に『讃歌』の撮影で徳之島へ行く前に奄美大島に寄ったようですが、ひょっとして貴女が「太陽の島」撮影の記憶から提案したのですか?いや、出しゃばらない性格の貴女のことだから、そういうことはないでしょう。貴女が『讃歌』のモデルを引き受けたのは、「太陽の島」撮影の経験があったことも理由の一つでしょうか?『讃歌』の初めての撮影(初冬の菅沼湖畔)の時のポーズや表情よりも「太陽の島」の貴女は表情やポーズが自然(笑顔はありません)なのは南国の自然の中だからでですか。19歳の素のままの貴女がとらえられていると思います。杉山氏と篠山氏の撮影テクニックの違いもあるのかもしれません。できたら篠山氏が貴女を撮った写真をもっと見たいと思います。貴女が『讃歌』の前に篠山氏の写真のモデルをしたことはほとんどい―知られていなかったようです。杉山氏も知らなかったでしょう。
2016.04.01 ID:156778
「風景の中のヌード」が載った写真雑誌に杉山吉良氏が書いていますが、徳之島へ行く前に隣の奄美大島に寄ったのですね。良い撮影場所が無かったので徳之島へ行ったと、杉山氏は書いていますが、月間雑誌連載の「風の中のわたし」に奄美大島の浜辺の写真があります。ところで奄美大島といえば『讃歌』の撮影が始まる昭和39年の夏、新進気鋭の篠山紀信氏が奄美大島で貴女をモデルに撮影しています(写真雑誌掲載は翌年)。「太陽の島」と題した写真は同島の海の隆起珊瑚礁の浅瀬、砂浜などで、貴女一人のが6枚、男の子と二人のが3枚掲載されています。真っ青な空、済んだ海、白砂、隆起珊瑚礁の岩など徳之島に似ている自然です。本土とは違う亜熱帯の自然の中ののヌード写真当時新鮮だったと思います。貴女が男児と手をつないで浅瀬を歩くのを高所から俯瞰した写真ややはり男児と手をつないで波打ち際で跳躍している写真はダイナミックです。男児がいなければ『讃歌』です。
岩に囲まれた砂に陽に灼けた体をうつ伏せにしている写真、海の中に腰までつかり両手を両手を後頭奉部に回し顔を上向かせているのを横から撮った写真は『讃歌』の写真と言っても区別できないのでは。
2016.03.26 ID:156486
太佐順『遠すぎる渚』によると貴女は結婚相手が誰であろうと新婚旅行は徳之島と決めていた由。余程徳之島が気に入ったのですね。杉山吉良氏の回顧で徳之島の撮影の合間に貴女は「仕合わせってこんなものね」と言ったそうですね。しかし徳之島の強烈な日差しがもしかして貴女の人生を変えてしまうきっかけになったのではないか。徳之島はこれ位にして他の撮影場所、静岡県伊豆半島の天城高原。『讃歌』『早春の賦』掲載の青空を背景にトランポリンで跳躍している写真。昭和40年8月下旬。月刊誌連載の深い草の中に後ろ姿で佇む写真。写真雑誌の「風景の中のヌード」に「花咲く浜」として花畑で花を摘む写真・・・これは裏石廊崎と推測しますが。『杉山吉良写真集nude』の夜明けの海に向かい岩に寄りかかる写真。いずれも場所は特定できません。また『讃歌』『早春の賦』の長野県の蓼科乙女滝の写真は昭和43年8月中旬午前9時。撮影も終わりに近づいた頃です。何年か前に初めて乙女滝に行きましたが、滝の落ち方が変わっているようでした。観光客が時々見に来ますので昼間の撮影は無理だったでしょう。夜間の波のプール?八王子の東京サマーランドにも行きました。
2016.02.12 ID:154292
徳之島の続きです。雑誌に「風の中のわたし」で連載された写真を持参し、金見の民宿の主人に見せましたら貴女を知っていました。貴女は金見での撮影の合間か帰りに金見崎のソテツジャングルを潜った先の土産物店や展望台に寄ったのでは。二つとも民宿が持っているものなので、その折りに貴女を見たか、或いは浜での撮影の様子を見ていたのかも。貴女ほどの美貌なら一回見たら忘れないでしょう。貴女はきっとその土産物店でお土産を買ったでしょう。私も川崎のお兄様へ手紙を添えて名産品を小包みで送りました。食べてくれたのでしょうか。薄気味悪がって捨ててしまったかな。3回目の徳之島行は平成21年2月。3泊4日でした。2回目と同じく飛行機を乗り継いでいきました。レンタカーを借りて島中を回りました。サンの東亜観光ホテルは既に廃業し今は土台などが残る廃墟です。貴女が撮影されたであろう波打ち際を長い間眺めていもいました。ムシロ瀬では週刊誌に写真が掲載された、潮溜まりに貴女がうつ伏せに浮いている場所を特定できました。この岩にカメラを据えてこういう角度で撮ったのだろうと想像しました。インノジョフタでは撮影場所を特定できませんでした。
2016.01.19 ID:153038
月命日から10日経ってしまいました。徳之島の続きです。徳之島での貴女は南国のせいか実にのびのびとポーズをとりました。「風景の中のヌード」は9点中4点が徳之島です。『讃歌』には3点、『早春の賦』『杉山吉良写真集NUDE』にも「風の中のわたし」にも徳之島の写真は数多く収録されています。南国のヌードが自然だからかもしれません。強い陽射しで貴女の黒くなった肌に水滴が弾いている様は本当に美しい。
徳之島の写真で一番きなのは夜明けの浜辺に後ろ姿で立つ写真です。両手で珊瑚を掲げ持ち顔を右に向けています。『杉山吉良写真集NUDE』に、そしてその新聞広告にも載っています。前にも書きましたが、貴女の後ろ姿のプロポーションは実に素晴らしい。徳之島のインノジョフタでの後ろ姿、奥日光西の湖での後ろ姿、浜松海岸の波打ち際に横たわった後ろ姿。次々に浮かびます。貴女の泊まった山の蒲鉾型の東亜観光ホテルは白亜の2階建てリゾートホテルになっていました。波打ち際で腹這いになり両手であごを支えている写真も好きです。ホテルの前の海岸で撮ったのでしょう。渋谷の東急百貨店の讃歌展のパンフレットにあります。パネルにもなっています。
2015.12.10 ID:150742
昨日12月9日は貴女の47回忌でした。徳之島の話をします。最初に徳之島に行ったのは昭和46年3月。徳之島での撮影から3年半、貴女の死から1年3か月後のことです。東京から新幹線・寝台特急・船を乗り継ぎ3日かかって徳之島の亀徳港に着きました。金見ではソテツジャングルを潜った先の展望台から白砂と隆起珊瑚礁の美しい海を見ました。感無量でした。土産物屋さんが民宿をやっていると聞いたので、翌日から金見のその民宿に泊まりました。奥さんに弁当を作ってもらい、『讃歌』の撮影場所となったムシロ瀬まで海岸伝いに岩を上り下りしながら歩きました。讃歌展の前年に公表された「風景の中のヌード」の巨大な玄武岩と小さな貴女が撮られた玄武岩が分りませんでした。写真集『讃歌』のたくさんの小さな逆三角形の岩を背景に貴女が後ろ姿で立つインノジョフタ。銀座三越の讃歌展の入場券の、砂浜を両手を上げて跳躍しいる写真は喜念浜ですか。貴女が泊まった東亜観光ホテルのあつた山(サン)では1日岩陰に寝そべって渚を見ていました。
週刊誌を切り取った貴女の写真を持参し貴女が見たであろう徳之島の自然を見て貰いました。懐かしかったですか?
2015.11.14 ID:149331
月命日から5日過ぎました。今回は伊豆半島です。『讃歌』には下田海岸の渚に花を手に横たわる写真(昭和42年4月中旬)と、伊豆天城高原の青空を背景に(恐らくトランポリンで)跳躍する写真(昭和40年8月下旬)が載っています。讃歌展の前年の写真雑誌に「風景の中のヌード」と題して掲載された中の「花咲く浜」は「南伊豆の冬の日だまりでは、露地の花づくりがさかんである。やわらかい日ざしのもと、マーガレットや金魚草をつむ裸女」の説明。遠景の小島から『杉山吉良写真集NUDE』の潮だまりで足に海藻を絡ませた写真と同じ時に撮影されたのでしょう。同写真集には伊東と思われる海岸で岩に両手をついて後ろ向きに立つ写真もあります。月刊雑誌に1年間連載された「風の中のわたし」に伊豆高原で草の中に後ろ向きに立つ写真があります。伊豆は何回も行きましたが撮影場所を特定することはできませんでした。「花咲く浜」は花を摘む貴女のポーズがよく好きな写真です。また、杉山氏は貴女の後ろ姿を多く撮っていますが、貴女の後ろ姿のプロポーションは完璧です。奥日光西の湖や徳之島での写真を含め貴女の後ろ姿は本当に素晴らしい。来月は47回忌ですね。
2015.10.10 ID:147699
今月も月命日の9日を過ぎました。浜岡砂丘へは浜松海岸の翌日に東海道線の菊川駅からバスで行きました。昭和48年当時は観光客はまばらでした。『讃歌』には2写真載っています。一つは青空を背景に砂丘に腹這いになった有名な写真。東急百貨店の『讃歌』展のポスターに使われていますね。撮影データでは昭和41年8月中旬の午前11時と午後3時の撮影。撮影当時は昼間でもヌード撮影が可能なほど人がいなかっのですね。『早春の賦』には砂丘を腹這いで滑り下りる写真があります。ここでも貴女の残像を追いました。何年か前に久し振りに行きましたが駐車場やトイレも整備され、観光客が多く来ていました。砂丘の波紋が壊されていて寂しい思いをしました。砂丘の名称も変わっています。東名高速道路が開通していない当時、国道1号線を車で時間をかけて浜松海岸・浜岡砂丘へ行ったのでしよう。着いてすぐ撮影に入り浜松市の旅館に宿り翌日また撮影したのですか。『遠すぎる渚』では浜松での撮影帰途、貴女は清水の次兄宅に寄った時の様子が描かれています。
ポーズも静的ですが自然になっています。次は伊豆半島についてお話しします。
2015.09.11 ID:146437
忙しさに紛れて貴女の月命日9日を過ぎてしまいました。浜松海岸の話です。初めて行ったのは昭和48年9月。車の免許が無かったので東海道線とバスでした。浜松海岸は中田島砂丘を過ぎるとほとんど一直線の海岸が続きます。写真集『讃歌』には3点載っています。撮影データでは昭和41年6月下旬の1時、2時、3時の撮影。浜昼顔の上に腰を下ろし両肢を前に投出し浜昼顔を摘んでいる写真が有名です。昭和47年1月に貴女の三回忌に合わせたように新宿の小田急百貨店で開催された「早春の賦」を見た時に同名の写真集とこの写真パネルを買いました。同じような浜がずっと続いていて撮影場所の特定は不可能でした。『杉山吉良写真集NUDE』には同一日に撮ったと思われる写真がいくつかあります。浜昼顔の上に座り花の輪を頭に乗せている写真、横たわり少し眉間を寄せて神経質そうな写真、夕陽に霞む波打ち際に後ろ向きで横たわる写真。『讃歌』の防砂杭に両手を絡ませ仰向けになっている写真とともに素晴らしいです。長い間砂浜に腰を下ろし、貴女も見たであろう遠州灘の打ち寄せる波を眺めつつ貴女の残像を追いました。免許取得後何回か行きました。次回は浜岡砂です。
2015.08.08 ID:144890
 明日9日は貴女の月命日です。奥日光の続きです。前回、菅沼での写真は3点と言いましたが5点でした。樹林を背景での正面立像が2点、逆さにしたボート上に横たわるのが2点、積み上げた薪の上に腹這いになっているのが一点でした。
 奥日光での撮影は日帰りのこともあったとか。まだ東北自動車道が開通していない時期、都心から夜中の国道4号線を杉山氏のオペルで日光に向かったのですね。片道4時間はかかったでしょう。お疲れ様でした。
 撮影は未明から夜明け、午前中と続いたと思いますが、朝食抜きでの撮影、さぞお腹が空いたのでは。遅い朝食は湯元の南間ホテルで摂ったのですか?温泉に浸かって疲れた体を癒しましたか?泊りでの撮影の時は南間ホテルに泊まったのですか?館主と杉山氏が昵懇だったように聞いています。その南間ホテルは無くなってしまいました。一度泊まってみようと思っていたのですが残念です。昭和46年11月に奥日光に行った際、湯元で南間ホテル向かい側の無料休憩所に居た老人が南間ホテルの館主だったようで貴女のことを知っているかもしれないと思いましたが、訊きそびれました。次回は浜松海岸と浜岡砂丘について話します。

2015.07.09 ID:143816
 太田さん。今日9日は貴女の月命日ですね。インターネット上では貴女はを昭和44年12月10日死亡としていますが、10日は三保海岸真崎灯台近くの海で貴女の遺体が見つかった日です。検死結果から貴女は「12月9日推定午後10時死亡」となっています。
 さて日光の続きです。小田代原、戦場ヶ原から国道をちょと上ると湯元、さらに上り金精峠を越えると群馬県、S字の下り坂を下りきった所が菅沼です。杉山吉良氏の専属モデルとなって初めてカメラの前に裸身を晒したのが菅沼湖畔。昭和39年11月、雪が積もっていました。この時の写真は『讃歌』には載っていませんが『杉山吉良写真集NUDE』には載っています。カメラに向かって立っている写真が2枚、逆さに置かれたボートの上に腹ばいになっている写真が1枚。うち2枚は視線がカメラに向けられています。初々しい表情、ポーズです。テスト撮りだったのでしょう。雪の積もった、恐らく小田代原で仰向けに、又後ろ向きに立っている写真は同じ日に撮られたのでしょうか。
 菅沼は今はキャンプ場になっていて湖畔に出るには入苑料70円を払う必要があります。
 今日はここらあたりで失礼します。
2015.06.26 ID:143374
 先日日光へ行ってきました。『讃歌』の撮影場所は日光の西の湖・小田代原・戦場ヶ原・湯川・霧降高原キスゲ平、浜松海岸、浜岡砂丘、伊豆、徳之島、蓼科乙女滝でした。すべて行きました。日光へは何回も行きました。徳之島には3回。どこでもあなたの残像を追いました。キスゲ平の満開のニッコウキスゲの中に佇み走る写真、好きです。今回は早すぎてキスゲは少ししか咲いていませんでした。撮影当時はリフトでキスゲ平まで登ったと思いますが、今はリフトは撤去され階段で登ります。杉山氏のオペルで深夜に行った小田代原・西の湖は今はマイカー乗入れ禁止で、徒歩・自転車・低公害バスで行くしかありません。小田代原はかつては真ん中に道がありましたが、今は立入禁止です。西端のハイキングコースから戦場ヶ原を通って赤沼まで歩きました。夜明けの霧の漂う小田代原にあなたが左足を上げ両手を突き出している写真、美しいです。小田代原の夜明けの霧は有名になり夜明けの写真を撮りに来る人達で賑わっているようで今では未明でもヌード写真は撮れません。西の湖へは時間がなく行けませんでした。夜明け・早朝の西の湖畔の写真、好きです、またお話します。お元気で。
2015.04.27 ID:141238
 太田さん。『讃歌』の感動をありがとうございます。あなたの死は大変なショックでした。
 八王子のお寺に墓参した時は寺が移転したばかりで、あなたのお骨は埋葬されておらず本堂に安置されていました。微笑んた遺影が素敵でした。その後3回目に墓参したときお骨は他に移っていました。5年前にそのお寺できいたところ、清水の霊園に移ったようでしたので、その霊園に行ってみましたがあなたのお墓は見当たりませんでした。
 もしもあなたがOLのまま職場結婚でもしていたらきっと幸せな家庭を築き、今頃は孫達に囲まれて素敵なお祖母ちゃんになっていたはずです。しかし、写真家・杉山吉良氏との運命的な出会いがなければ名作『讃歌』はありえませんでした。 3年後には50回忌です。それまでに何とかしてあなたのお墓にお参りしたいと思っています。墓所をご存知の方がいらっしゃれば教えていただければ、と思います。
 
 安らかにお眠りください、今度生まれてきたときはきっと仕合せを掴んでください。
2014.12.10 ID:136968
さかえ
八重叔母さん、私も63になりました!今年、品川のおばさんがそちらに行ったから、母と再会させて挙げて下さい、素敵な叔母さん!想い出の中にいつもありがとう!
叔母さんの最後の兄さんが6年前に他界して、
もう!想い出話も聞けなくなったのが寂しいですね、皆さん仲良く以前の様に過ごしていると思います。母とお兄さん達と安らかに過ごして下さい
2014.11.08 ID:135959
百合
お悔やみ申し上げます

2014.10.25 ID:135581
たびにん
つらかったね。誠実生きて純粋に死を選んだあなたは天使です。
2013.07.01 ID:46002
お悔やみ申し上げます
1969年12月10日に亡くなった人