愛知県海部郡大治村出身。大泊尋常高等小学校から津島市の県立第三中学校に入るが、金遣いの荒さを父に咎められ、中退。メリヤス屋の住み込み店員や菓子職人の見習いをするが、長続きせず海軍入りを志望した。1935年に呉海兵団に入団したのを始めに、第32期操縦練習生、大村航空隊を歴任。1937年、南京上空で初戦果を挙げた。1941年太平洋戦争が勃発すると、フィリピンクラークフィールド飛行場攻撃に参加。翌年、元山海軍航空隊に配属。1944年、横須賀航空隊の教官となる。1945年、厚木基地上空に飛来したグラマン編隊のうち2機を撃墜。この時から、海軍内で「空の宮本武蔵」の異名で知られるようになった。同年6月、第三四三海軍航空隊に異動。1ヶ月後、米機動部隊艦載機を迎撃するため長崎県の大村航空基地から出撃、未帰還となる。戦死による特進で、最終階級は海軍中尉となった。
武藤金義 - Wikipedia