まいり
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保科百助

ほしな ひゃくすけ
1868 - 1911
教育者 鉱物学者
2022.02.14 ID:1318082
保科百助(本名)は、地方エリートが入学する師範学校出身でありながら、出世とか保身とかに興味がなく、ひたすらに教育とは何かを探求し続けた人でした。
長野県で小学校の訓導や校長をしながら、その村の産業の育成や生活改善にも関わり、また被差別部落の児童を村の反対を押し切って本校舎で学ばせるなど、彼の正義感の強さと直情径行の性格が教育への情熱へ向かわせたと思います。
島崎藤村の小説「破戒」に登場する人物のモデルと言われる大江磯吉(長野師範の秀才)とも教師時代に一時期関りががあったようです。藤村は、それを小説にしたとも言われています。
2021.09.04 ID:1295580
やま
保科百助もようやく信州大学が作成した信州大学の歴史のWebサイトに載るようになった。ただし信州大学の設立を初めて提唱した人としてであるが。2017年で70周年を迎えた信州大学では、松本市の中央図書館で展示会がいまも行われていて、ウェブサイトでも展示会が開かれているが、「信州大学のあゆみ」というタイトルのコーナーでは、明治時代の関係者の中に混じって保科の写真も載っている。ようやく百助おじも母校信州大学のウェブサイトに載るようになった。なにしろ5年くらい前以前にはウィキペディアの長野師範学校の卒業生名簿にも載っていなかった。百助は教師を辞めたあと信濃公論と言う新聞を立ち上げたが、その中で「自分が県知事なら、信州大学を設立すべきとの申請書を文部省に出すのだが」という記事が残っている。百助おじは、できればあと10年くらい校長を続けていて欲しかった。でも1年か2年で転勤しているところを見ると、相当の軋轢があったと思う。それは、県教育関係者や同和運動による村村との軋轢である。あれだけ信念をもって戦っても当時の山間地方の社会の壁は相当厚かったのだろう。(私の祖母が百助の次兄の娘です)
2018.09.24 ID:258280
昨日「地球の宝石箱」に鉱物を見に立ち寄り、保科さんの事を初めて知りました。
学者として活躍するのではなく、光が当てられることもなく、短い人生であったことに、少しかわいそうな気持ちになりました。
機会があれば、石碑など見に行きたいと思います。
 ID:28633
お悔やみ申し上げます
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