まいり
サイト継続の為ご支援お願いします m(_ _)m 詳細
[ 2023.04.02 ] ログイン機能APPLEを追加しました。
使い方・仕様 | ログインページ

宮城頼久

みやぎ よりひさ
1570 - 1609
安土桃山時代の武将  江戸時代の旗本・大名
宮城頼久さんについて
官位  従五位下 右京進 
    但馬芦屋城主

宮城豊盛の女婿・養嗣子
(豊盛実父の山崎信家は片家の叔父、
つまり片家と豊盛は従兄弟同士と思われる)
 
実父 山崎片家(従五位下 志摩守 /源太左衛門) 

内室 宮城豊盛息女お宮の方

嫡男 豊嗣(但馬清富藩主)

息女 宮城市左衛門室

   大西八右衛門室

兄弟 山崎家盛(従五位下左馬允/因幡若桜藩主)
   山崎定勝(家勝)(伊勢竹原一万石領主)
   本庄郷高(本庄美作守秀国養嗣子)
   加藤百助(加藤清正養子)
姉妹 加藤清正正室
   別所吉治(従五位下豊後守/但馬八木藩主)室
甥  山崎家治(従五位下甲斐守/丸亀藩主)
   本庄虎助(娘お石の方は浅野長矩室瑤泉院の母)
   加藤虎熊(加藤清正長男)

幼名 長壽丸
別諱 頼壽 長俊 忠頼
   宮木右京大夫や宮木右京亮とも呼ばれた。

天正13年(1585)10月6日、従五位下・右京進に叙される。
天正16年(1588) 北野大茶湯の奉行を前田玄以らと共に勤める。
天正20年(1592) 秀吉小姓頭として肥前名護屋の陣に随行
慶長3年(1598)秀吉没。形見分けとして青江の太刀を賜る。
慶長5年(1600) 関ヶ原の戦いでは養父豊盛が西軍についたが内応の功により助命、豊盛の隠居で赦され頼久が家督、豊後の本領を相続する。

慶長6年(1601) 実兄山崎家盛領の但馬二方郡6014石余を委任される。代官として海瀬甚右衛門・河井惣右衛門・西川助右衛門らを遣わす。

慶長10年(1605) 正式に家盛領の分知が承認され、豊後の所領を加えて計1万石余を拝領、大名となり諸侯に列する。
芦屋城下館を正式に陣屋とし、大野権内らに治めさせる。

同年、嫡男伊勢松(豊嗣)誕生。

慶長11年(1606) 駿府城石垣普請奉行を勤める。
慶長14年(1609)3月9日卒去 享年四十歳 
法名 祥光院殿前右京兆因叔覺縁大禪定門

心渓宗安禅師(大徳寺136世)を師として参禅に勤しんだ
と伝えられている。
2014.03.23 ID:92762
光明遍照 十方世界
       念佛衆生 摂取不捨
 ID:13455
お悔やみ申し上げます
ご支援をお願いいたしますm(_ _)m
Amazon ←のリンク、↑のバナー、又はお供えリンク経由で商品をご購入いただくとこのサイトに紹介料が支払われる仕組みになっています。ご購入者様のお支払い額は増えません(Amazonが紹介料を負担)ご支援いただけますと幸いです。
詳細はこちら
ログインするとサービスがご利用いただけます。
ログインページ