中国、南宋の政治家。字は宋瑞また履善、号は文山。1256年、20歳の若さで科挙に主席で及第、南宋の第5代皇帝理宗に仕えて江西安撫使となる。当時、南宋に対する元の圧力が強かったが、天祥はこれに対して強硬策を主張、免官となった。
のち元へ交渉の使者として赴くが、談判の後で捕らえられ、その間に南宋の首都臨安が陥落。脱走し、第6代皇帝度宗の長子である益王を助けて抗戦を続けたが、1278年遂に元に捕らわれた。入獄後、クビライ(元の第1代皇帝)から元に下るよう度々勧められるが、断固として拒否。1283年、遂に処刑された。
その手になる漢詩に、『過零丁洋(れいていようをすぐ)』『正気歌(せいきのうた)』などが名高く、特に忠臣の気概を詠んだ『正気歌』は、日本でも幕末の尊攘派に影響を与えた。
○漢詩リンク
文天祥 過零丁洋
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